わたしは、完成されたものが好きだ。
作家の人が練りに練って、何年もかけて完成させた作品を手にして、ワクワクしながらページをめくる感覚が好き。作品世界に没頭する1回目、張り巡らされた伏線に驚く2回目、すみずみまで表現を堪能する3回目(以降)——そうやって何度も一つの作品を反芻するのが好き。
ところどころに、つくった人のこだわりとか、遊びごころとかを感じられる瞬間が好き。作品の向こうで、作者がニヤリと不適な笑みをうかべているんだろうな、と想像するのが好き。
たった一つの作品を生み出すために、きっと血の滲むような想いがあって、孤独と苦悩の日々があって、それでも表現せずにはいられなかった、作品と向き合わずにはいられなかったその人の業のようなものを感じられるのが好き。それが一切、本人の口から語られない美学も好き。
たぶん、わたしのこの感覚はもう古いんだろうなとは思う。
https://note.com/kensuu/n/nf4270e069c20
「知られなければ、ないのと同じ」ということは、よくわかる。わかるも何も、その言葉の通りだから。
あらゆるアウトプットが均質化していることも、そこから「プロセスの共有」に価値が生まれていることも、理屈としてはわかる。というかそうならざるを得ないし、それで救われる人もたくさんいるだろう。正直、わたしもそれに近いビジネスモデルを模索している。
それでも。
「完成された作品に触れて、新鮮な驚きを得たい」と考えてしまう、ただのわがままな消費者の戯言。