確かなものなんて何もないはずなのに、わたしたちは「当たり前」に慣れていく。最初はこころから感動し、感謝していたことも、鮮やかな記憶はいつしか色褪せて、日常の生活の中に埋もれていってしまう。
それは「蛇口をひねれば、きれいな水がいつでも出る」とか「スイッチひとつで部屋の中が涼しくなる」とか、そういうレベルのことでもだ。
先週末たまたま、80年代くらいに作られたドラマを見ていたのだけど、主人公たちが生きている世界には「携帯電話」が存在しなかった。
わたしも一応、高校生までは携帯を持っていなかったので、当時の感覚をなんとなく思い出した。ちょっとした行き違いで、連絡がすれ違ってしまうこと。友人の家に電話一本かけるにも、なんだかドキドキしたこと。
いまは携帯電話があるから、恋愛ドラマやラブソングをつくる人たちは非常に苦戦するのだと聞いたことがある。
だいたいは連絡ついちゃうから。ただひたすら待つことなんてないから。すれ違わないから。
でも一方で、どんなにツールが進化しても変わらないなと思うこともある。
「居場所がなかった/見つからなかった」と歌い熱狂的な支持を得ていたのは90年代の浜崎あゆみさんだったが、今もなお“居場所”を求めているのは10代の若者ばかりではないんだろうなと思う。
「当たり前」のことが増えすぎた結果、感謝や感動のハードルが上がる。他人への期待も、たぶん必要以上に高くなってしまっているから。