いつも人と同じであることが求められた。そんなつもりはなかったのに。ほんの半歩だけ、はみ出た足が好奇の視線をあびて、意図的にふみつけられたりしていた。そんなことが、そこらじゅうで起こっていた。
「はみ出したっていいんだよ!」と時代を代表するポップ・ミュージシャンは軽やかに唄っていたし、「もっと自分の意思はないのか?」と大人たちは声を荒げていたけれど、そうやって意思表示したあとのことは誰が責任取ってくれんのよ。と、内心、いつもいつもイラだっていた。
多様性、という言葉の意味を考えるようになったのは最近だ。
列からはなれて、みんな思い思いの場所で、好きなようにすごしたらいい。お互いの価値観をリスペクトしあい、「まあそういう考えもあるよね」と受け入れる。
それは一見、とても美しい在り方のようにも思える。
ただし。自分自身の生き方を、“多様な価値観のひとつ” として受け入れてもらうためには、自分から確固たる意思表示をしなければならない。伝えなければ、価値もなにもないのと同然なのだから。
かつて列からはみ出すことを恐れたのとは、また別の不安が頭をもたげてくる。あの頃はその列に合わせれば「とりあえず正解」としてしのぐことができた。
でも明確な基準は、もうない。そんな中で、「私はこうありたい」と勝手に線を引いていく。自分が決めたことだけが道になる。当時とは違うその怖さを、ときどき痛感して身震いする。