#438 プラナリアにはなれない【三日坊主とひとりごと】

『プラナリア』という小説がある。10代の頃に大好きだった作家・山本文緒さんの作品。あらゆる種類の“ちょっとした、何ともいえない困難”に直面し、小さくもがき、もやもやと生きる女性たちを描いた短編集だ。

 

作中では、主人公たちに晴れやかなハッピーエンドは訪れない。もやもやは、もやもやのまま残り続ける。これから彼女たちはどうなるのだろうか、と思いをめぐらせてみるも、それを明確に想像できるほどの人生経験が、当時のわたしにはまだなかった。

あれからもう20年くらいの月日がたち、わたしもすっかり「いい大人」になった。

先日、同年代の編集者の方がつづった、こんなnoteを目にした。

https://note.com/kakijiro/n/n331588cc44b8

自分自身の容量を見極めず、「やってこ!」の鼓舞魔法を唱えながら走り続けていたが、途中で心と体が分離してしまった。

自己の喪失。アイデンティティの再定義。やるべきことはわかっているものの、やりきれない自分との葛藤が生まれていった。(本文より引用)

簡単に「わかる」と言うのは失礼だと思うけれど、これを読んで、わたしは『プラナリア』に出てきた彼女たちのことを久しぶりに思い出した。

そう、やるべきことはわかっている。年相応に求められることも増えてきた。

前向きに、求められるまま走っていけばいいだけ。

でもわたしたちは人間であって、プラナリアのように、一度切れてもにょきにょき自然には再生できないし、ジャムおじさんのように、濡れてしまった顔をいつも焼き上げてくれる人はいない。

私は自分がやがて立ち直って、また社会に出て働きはじめるであろうことは分かっていた。疑問を持ちつつもまた前へ前へと進んでいくのだ。それが何故だか分からないがとても悔しかったのだ。転んで怪我をしても、やがてその傷が治ったら立ち上がらなくてはならないのが人間だ。それが嫌だった。(『プラナリア』より)

ときには、そんな気分になることだってある。

どんなに周りの変化に焦ろうと、勇ましい正論に流されかけようと、自分で自分のコントローラーをがっちり握ってスピード制御していくしかないのだ、と思う。ほんと、大変よね。